大判例

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大阪高等裁判所 平成元年(う)848号 判決 1990年1月25日

主文

原判決を破棄する。

本件を吹田簡易裁判所に差し戻す。

理由

本件控訴の趣意は、弁護人松井忠義作成の控訴趣意書記載のとおりであるから、これを引用する。

控訴趣意第一について

論旨は、要するに、原判決は、検察官が本件につき道路交通法七〇条前段・後段の故意犯を主張していたにもかかわらず、同条前段・後段の過失犯を認定しているから、審判の請求を受けた事件について判決をせず、又は審判の請求を受けない事件について判決した違法がある、というのである。

そこで所論にかんがみ記録を調査して検討するに、まず、本件の原審における訴訟の経過は、次のとおりである。すなわち、本件の当初の起訴状による公訴事実第一は、被告人が普通乗用自動車を運転中、前方不注視等の過失により被害者運転の自動車に追突し、同人に加療約七日間を要するに頸部捻挫等の傷害を負わせたという業務上過失傷害の事実であったところ、被告人及び弁護人において、本件事故と被害者の受傷との因果関係を争ったため、検察官の申請でこの点等について鑑定がなされ、第五回公判において鑑定書が取り調べられた後、第六回公判において、検察官から、右事実につき道路交通法違反の事実に訴因変更がなされた。右訴因変更後の公訴事実第一は、「被告人は、昭和六二年一二月二九日午後一一時一〇分ころ、普通乗用自動車を運転し、大阪府吹田市山田西一丁目三五番先道路を西から東へ向かい時速約四〇キロメートルで前方約二一・四メートルの地点を先行するA(当二三歳)運転の普通乗用自動車に追従進行中、同車が信号待ちのため停止しょうとして減速したのを認めて減速したが、チェンジレバーをニュートラルに入れ替えてハンドルから左手を離し、左手に自車内の自動車電話機を持って左手指でプッシュ式ボタンを押しながら約三三・六メートルの間前方注視を欠きブレーキ操作を怠ったまま時速約一一・六キロメートルで進行し、もってハンドル及びブレーキを確実に操作せず、かつ、他人に危害を及ばさないような速度と方法で運転しなかった。」というものであり、検察官が第八回公判において釈明したように、故意による安全運転義務違反(道路交通法七〇条前段・後段、一一九条一項九号)の事実である。ところが、原判決は、それ以上の訴因変更の手続がとられていないのに、判示第一において、右公訴事実中「ブレーキ操作を怠ったまま」までを完全にそのとおり認定した後、「時速六・八ないし一一・六キロメートルで進行した過失により、もってブレーキを確実に操作せず、かつ、他人に危害を及ぼさないような速度と方法で運転しなかった。」と認定・判示し、「法令の適用」の項で、道路交通法七〇条前段・後段、一一九条二項・一項九号と過失による安全運転義務違反の罰条を掲げ、「当裁判所の判断」の項では、より明確に、「被告人の当時の行動は、ブレーキ操作を確実にするという事実の前提である危険な状況の切迫又は他人に危害を及ぼすかも知れないという具体的状況について判断を誤ったものであり結果発生を認容したものではない事実は、被告人の供述から認められるので過失犯として責任を問うべきものと考える。」と判断を加えている。

ところで、故意による安全運転義務違反の事実と過失による安全運転義務違反の事実とは構成要件が別個であるのみならず、後者には前者にない注意義務違反という別の要件が加わり、被告人の防禦の対象に差異が生ずるものであり、ことに、本件においては、検察官において故意犯である旨の明確な釈明をなし、これに沿って審理が進められてきたものであるから、原審において、右注意義務違反の点について被告人側の十分な防禦がなされたとも認め難く、原審が訴因変更の手続を経由することなく過失による安全運転義務違反の事実を認定したのは、所論が主張する絶対的控訴理由にあたるとはいえないものの、判決に影響を及ぼすことが明らかな訴訟手続の法令違反があるといわなければならない。論旨は、右の限度で理由がある。

次に、職権で記録を検討すると、原判決には理由不備の違法があるというべきである。

すなわち、道路交通法七〇条は、自動車等の運転が、車両、道路等の状況に応じ臨機に応変の処置を必要とするというその特性にかんがみ、同法各本条の具体的義務規定では賄い切れない危険な行為を補足し禁止するための補充規定であるから、同七〇条所定の危険な行為によって人損・物損等の被害が生じた場合であったとしても、その被害はあくまでも一個の事情であって同条違反の罪の成立要件ではなく、同条の構成要件は同条所定の危険な運転行為自体と解すべきことは多言を要しないところである。したがって、過失によって同条所定の危険な運転行為が行われた場合における過失とは、そのような危険な行為によって生じた人損・物損等の結果と関連させて考えるべきではなく、危険な行為それ自体との関連で考えるべきであって、その過失内容は、そのような危険な行為に陥ったその原因となる行為について求めるべきである。このように、同条の過失犯は、過失によって同条所定の安全運転義務に違反した運転行為をした場合に成立するのであるから、同条前段・後段ともに過失犯の成立を認めた原判決としては、罪となるべき事実として、同条前段及び後段に該当する具体的な運転行為の他、それが過失によって行われたことを、過失内容を具体的に明示して認定しておく必要があるというべきである。しかるに、原判決の認定判示するところによれば、原判決は、確かに、そのような運転行為及びそれが過失によるものであることを示しているものの、それは「過失により」という簡潔な表現に過ぎないうえ、その運転行為自体をもって過失の内容としたため、同条違反の過失犯に要求される注意義務の内容及びそれに違反した具体的行為が全く明らかにされておらず、この点において、以下に述べるとおり、理由不備の違法があるといわざるを得ない。

まず、同条前段の過失についてみると、原判決は、「約三三・六メートルの間……ブレーキ操作を怠ったまま……進行した過失により、もってブレーキを確実に操作せず」と判示している。これによると、原判決は、「ブレーキ操作を怠ったまま進行した」こと自体を過失内容としたことが明らかであるところ、「ブレーキ操作を怠ったまま進行した」という被告人の行為は、同条前段の構成要件に該当する危険な運転行為であり、同条の過失犯にあってはその結果にあたるのであるから、これを過失内容とするのは誤りであって、同条前段の過失犯を認定するためには、そのような「ブレーキ操作を怠ったまま進行した」行為が被告人の過失に起因することを明らかにしておかなければならない。しかるに、原判決の判示内容をみても、そのような過失については全く認定されておらず、過失犯の罪となるべき事実の認定に関し理由不備の違法があるものといわざるを得ない。なお、所論にかんがみ付言すると、同条前段の規定は、旧道路交通取締法七条二項四号の無謀操縦の規定がその沿革であるといわれているように、ハンドルの手離し運転や極端なジグザグ運転などそれ自体直接他人に危害を及ぼすおそれがあるハンドル・ブレーキ等の操作方法を指すものと解すべきであるところ、原審で取り調べた各証拠によるも、本件の場合、被告人はブレーキ操作が遅れたとはいえるものの、それ自体直接他人に危害を及ぼすおそれがあるブレーキ操作をしたとは認められないから、「ブレーキを確実に操作せず」という事実自体証拠上認定できるかどうか疑問というべきである。

次に、同条後段の過失犯の内容についてみても、原判決は、「約三三・六メートルの間前方注視を欠きブレーキ操作を怠ったまま……進行した過失により、もって、……他人に危害を及ぼさないような速度と方法で運転しなかった」と判示しているにとどまっている。ところで、同条後段で「他人に危害を及ぼさないような速度と方法で運転しなかった」といっても、それだけでは不確定な概念であるため、具体的事案においてそれが何にあたるかを検討しなければならないところ、本件の原判決がそれをどのように解したかは判文上必ずしも明確とはいえないものの、結局、原判決の認定した具体的状況のもとで、「(チェンジレバーをニュートラルに入れ替えてハンドルから左手を離し、左手に自車内の自動車電話機を持って左手指でプッシュ式ボタンを押しながら)約三三・六メートルの間前方注視を欠きブレーキ操作を怠ったまま時速六・八ないし一一・六キロメートルで進行した」運転行為がそれにあたると判示したものと解するほかないと考えられる。とすると、原判決は、ここでも同条後段の結果にあたる事実を過失内容としたこととなり、「前方注視を欠きブレーキ操作怠ったまま進行した」被告人の行為がいかなる過失に起因するかなど同条の過失犯の認定に必要とされる過失内容につきその認定・判示を欠くものといわざるを得ない。

ところで、本件の場合、原判決のように過失犯を認めるとして、その過失内容をどのように構成すべきかについて付言すると、原判決が本件の具体的状況として認定するところによれば、被告人は、普通乗用自動車を運転し、時速約四〇キロメートルで前方二一・四メートルの地点を先行するA運転の普通乗用自動車に追従進行中、同車が信号待ちのため停止しょうとして減速したのを認めて減速したものの、その後は、チェンジレバーをニュートラルにしただけで、左手指で自動車電話機のプッシュ式ボタンを押しながら進行し、それ以上の制動の措置をとらなかったというのであるから、本件の場合においては、前車が減速するのを認めて自車を減速させた時点以降において、前車までの車間距離、前車及び自車の速度、自車の制動能力などからして、減速しチェンジレバーをニュートラルにしただけでは前車の後方に安全に停止できない状況があり、被告人においてその状況を的確に確認すべきであったのに、これを怠り、減速チェンジレバーをニュートラルにしただけで前車に著しく接近しないうちに安全に停止するものと軽信した点において、過失が存したと構成する余地があるものと考えられる。一方、原判決の認定によれば、被告人は、ブレーキ操作をしなかったこと、左手指で自動車電話機のプッシュ式ボタンを押しながら進行したことなど、安全運転義務に違反する具体的行為について認識を有していたとも認められるから、同条後段の結果である、他人に危害を及ぼすような速度・方法で運転したことについて認識があり、故意犯が成立するとする余地もないわけではなく、この点についても検討も要すると考えられる。更に、ひるがえって考えてみると、同条後段の罪が成立するためには、道路・交通及び車両等の具体的状況に照らし、他人に危害を及ぼす客観的な危険のある速度・方法による運転行為であることを示す具体的事実関係が明らかにされていなければならないのであるが、この観点から本件をみると、前方に信号待ちのため停止しようとしている前車を認めながら約三三・六メートルもの間前方注視等を欠いた状態で進行を続けた行為自体一般的には危険とはいえるものの、それが他人に危害を及ぼす客観的な危険のある行為といえるためには、その間の被告人車両の速度や前車まで及び前車が停止しょうとする地点までの距離が重要な要素となると解されるところ、未だ原判決がこれらを十分検討したとはいい難く(もっとも、この速度については、原判決は、時速六・八ないし一一・六キロメートルと認定したものと解されるが、原判決の「当裁判所の判断」の項によれば、それは前車との衝突時の速度を認定したものであることが明らかであり、チェンジレバーをニュートラルにした状態で、司法警察員作成の昭和六三年一月一五日付実況見分調書により認められるように現場道路が平坦であったとしても、約三三・六メートルもの間この速度で走行したとは考えられず、衝突地点で右程度の速度が出ていたとすれば、その開始地点では通常時速一一・六キロメートルよりかなり早い速度であったとみるのが自然である。)、これらを認定したうえで、本件がそもそも他人に危害を及ぼす客観的な危険のある速度・方法で運転した場合にあたるかどうかの検討も必要ではないかと思われる。

以上によると、過失による安全運転義務違反の罪とその余の罪とを併合罪として一個の刑を科した原判決は、その余の論旨に対する判断をするまでもなく、破棄を免れない。

よって、刑事訴訟法三九七条一項、三七八条四号、三七九条により原判決を破棄し、更に審理を尽くして本件の具体的状況を明らかにしたうえ、それが他人に危害を及ぼさないような速度と方法で運転しなかったことになるといえるかどうか、その点につき被告人に認識があったかどうか、認識がなかったとすれば被告人にどのような注意義務違反が考えられるかどうかを検討し、過失犯について処断する場合には、過失の具体的内容を明確にした訴因変更の手続を経由し、当事者に攻撃防禦の機会を与える必要があるので、同法四〇〇条本文により本件を吹田簡易裁判所に差し戻すこととして、主文のとおり判決する。

(裁判長裁判官 岡 次郎 裁判官 清田 賢 裁判官 島 敏男)

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